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6.律法主義と安息日

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安息日と律法主義に対する誤解
 
  人のための安息日
 
 安息日に関する現代キリスト教会の最も大きな誤解点は、安息日はユダヤ人の聖日で、日曜日はクリスチャンの聖日であるという考えです。しかし、安息日は創造と同時に制定されたもので、人類の始祖アダムの時から存続している制度です。人類が罪を犯したから付け加えられたものではなく、ユダヤ人だけのために与えられたものでもないのです。十戒は、時代を越えて、民族の枠組みを超えて、全人類がどのような時でも守るべき生き方の原則を示したもので、十戒の適用を、ある時代や民族に限定してしまうのは、非聖書的なことと言わなければなりません。
 
 「人の子は、安息日にもまた主なのである」(マルコによる福音書2:28)。イエス様も、安息日がユダヤ人だけのものではなく、「安息日は人のためにある」(マルコによる福音書2:27)と言明されました。それは、創造当時に、安息日と一緒に制定された結婚の制度(創世記2:21~24)が、ユダヤ人だけの制度ではないことと同じです。結婚の制度は、安息の空間である家庭を提供し、第七日は、安息の時間である安息日を提供しています。そして、この時間と空間の出会いの中で、人は被造物である自分の存在を意識し、神様の守りを感じながら、他の人と共に生きる幸いを経験していくのです。それが創造の秩序であり、目的でした(出エジプト記20:8~11)。
 
 すでに旧約聖書イザヤ書において、安息日はユダヤ人だけに限定されたものではなく、万民の安息日、異邦人の安息日とあり、身分や境遇、国籍に関係なく、すべての人が、この日を堅く守ることによってさいわいを得るとの約束が与えられていました。安息日の時代的な制約や民族的な制限は当時からなくされていたのです(イザヤ書56:3~7)。「安息日を守って、これを汚さず、その手をおさえて、悪しき事をせず、このように行う人、これを堅く守る人の子はさいわいである」(イザヤ書56:2)。
 
 さらに、使徒時代において、異邦人が福音を受け入れキリスト者になった時、ユダヤ人だけに与えられていた儀式律法の割礼などは廃棄され、それを守ることは決して要求されませんでしたが、安息日は、ユダヤ人とクリスチャンたち両方が問題なく共有していた事実を使徒行伝から確認する必要があります。
 
  律法主義に対する誤解
 
 安息日に対する誤った見解を持った人々は、安息日を守ったユダヤ人全員が、律法主義者であったと考えがちです。もしこのような見解が、本当に聖書的な真理であるとするなら、幼い時から死ぬまでの一生を、「安息日にいつものように会堂にはいり」(ルカによる福音書4:16)礼拝に参加されたキリストや、ユダヤ教徒時代からクリスチャンになった後も、「パウロは例によって、その会堂にはいって行って」(使徒行伝17:2)と言われているように、安息日を守っていた使徒パウロもまた律法主義者であり、安息日を強調して、遵守してきたすべての信仰の先祖たちや預言者たちもみな、律法主義者になってしまうという、誤った結論を引き出してしまうことになるのです。これはいわば、二つの前提から一つの結論を引き出す、推理論法である三段論法の誤った適用と言わなければなりません。

この三段論法は次のようなものです(誤った三段論法)。

大前提:イエス・キリスト当時のパリサイ人たちは、行いによって救いを得ようとする律法主義者であった。
小前提:そのパリサイ人たちは、皆徹底的な安息日の遵守者であった。
結論:したがって、今日も安息日を徹底的に遵守する人々は皆パリサイ人たちと同じ律法主義者である。
 

  もし、このような三段論法が正しいのだとすれば、そこからは聖書に関してとめどもなく誤った結論が出てきてしまいます。

福音書によると、パリサイ人たちは安息日以外に、十分の一献金、その他の献金、施し、断食祈祷なども、徹底的に実行するな人たちでした。(ルカによる福音書18:11,12)。それでは、次のような論法は正当性を持つでしょうか?
 

大前提:キリスト当時のパリサイ人たちは律法主義者であった。
小前提:当時のパリサイ人たちは、徹底的な十分の一献金、その他の献金、施し、断食の祈りを
実践し、貪欲や不正、姦淫を避けていた。
結論:したがって、今日も十分の一献金、献金、施しや断食の祈りをする者、貪欲や不正姦淫を
行わない者はパリサイ人たちと同じような律法主義者である。

 
 十分の一献金と献金、施しと祈りは、真のキリスト者にとって当然の義務ではないでしょうか?それにもかかわらず、この三段論法でいくと、クリスチャンとしての当然の務めを果たす人たちも、すべて律法主義者であるという結論になってしまうのです。どうしてこのようなとんでもない結論がでてくるのでしょうか?これは論理の組み立てが間違っているのです。つまり、安息日を守ることや十分の一献金、献金、施しが人を律法主義者にするのではないのです。イエス様の言葉にその答えがあります。すなわち、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなど薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない」(マタイによる福音書23:23)
 
 ここではっきりすることは、人は、十分の一や献金、安息日など、律法を遵守することによって、律法主義者になるのではなく、それらの行いによって自分を義とするとき、結果としてキリストの義を拒み、律法主義者になるということです。つまり、外面的に律法は厳格に守っていたとしても、律法の真の精神である公平とあわれみを実践していない人々は律法主義者なのです。
これとは反対に、義の標準である律法を無視して、意図的に律法に従わない人は、「非道の者」(ペテロの第二の手紙2:7、3:17)、もしくは、「不法を働く者(マタイによる福音書7:23,13:41;テモテへの第一の手紙1:8,9)と呼ばれており、裁きを受けることになります。私たちは、誤った先入観によって人を裁くのではなく、聖書の正しい論理によって物事を見ていく必要があります。

 
  律法主義と非道主義
 
 今日、多くのクリスチャンたちが、日曜日を安息日として守ることを、イエスの復活の出来事と関連して説明しています。週の初めの日に復活されたイエスを記念して、日曜日を礼拝の日として守ることがクリスチャンのなすべきことと思っているのです。そして、現在の土曜日に当たる聖書上の第七日の安息日を守ることを、ユダヤ主義に基づく律法主義的な安息日と考えています。

しかし、先に述べたように、律法を遵守する事が律法主義者を作り上げるのではありません。たとえば、私たちは十戒の第五の戒めに従って、父と母を敬う人や、第八の戒めのとおりに盗みを働かない者、第二次世界大戦時に、第二の戒めを犯さないために神社参拝を拒み、命さえ取られた殉教者たちを、律法主義者であると批判することはありません。また日曜日を主日として守るために一生懸命努力することを、律法主義として批判したりはしないでしょう。もし十戒の他の戒めを守ることが律法主義ではないのだとすれば、第四の戒めに従って、聖書的である第七日の安息日を遵守する者たちだけが、律法主義者になるとは決して言えないのではないでしょうか。
 

 律法主義者とは、律法を守った自分自身の善行をもって、自らを義と見なし、神の前に救いを受けるにふさわしい者とすることです。このような立場は全く非聖書的なことと言わなければなりません。しかし、キリスト者と言われる人たちは、律法主義者になってはならないのと同じほど、「非道な者」「不法を働く者」になってはなりません。知りながら律法を犯す者、戒めに従わない者は、律法主義者と同じく神の御国の市民になることはできません(マタイによる福音書7:23;ペテロの第一の手紙3:17、テサロ二ケ人への第二の手紙2:3,7,8)。
 
   安息日の遵守と救い
 
 “安息日を守る事によって救われるのか?”という質問をする人があります。この質問の中には、“救いは神の恵みにより信仰によるのであり、行いによるものではない”という、プロテステント教会の大切な命題である「信仰による義」の立場に反するのではないかという疑いが含まれています。しかし、この質問の意味するところを、安息日に限ってすることは間違っていると言わなければなりません。なぜなら、“親を敬う事で救いを得るのか?”、“盗みをしない事で救いが得られるのか?”と問うてみて下さい。これはみな同じ性質の質問です。これらの質問に対して私たちはどう答えるのでしょうか?

私たちは、親を敬い、盗みを働かなかったとしても救いを得られない多くの人がある事を知っているので「はい、そうです」と答える事をためらいます。反対に、不法行為を悔い改めない人たちは、「神の国をつぐことがない」(ガラテヤ人への手紙5:19~21;テモテへの第一の手紙3:2~5)と言われている聖書の言葉を考えるとき、私たちは“いいえ”と答える事をはばかります。では、この質問の問題点はどこにあって、解答は何なのでしょうか?
 

   まず、安息日は、創造と解放の歴史的な出来事を記念する日として、たとえば韓国における「開天節」や「光復節」とその意味が重なっていると考えることができます(申命記5:12~15)。つまり、“安息日を守る事によって救われるのか?”との質問は“光復節を守る事によって解放されたのか?”という質問と同じになります。

論理のスタートが間違っていれば、正しい答えが出てくるはずはありません。生れてきた人には誕生日があり、解放された民族には光復節があるように、神による創造と解放を明確に理解し体験した人にとっては、安息日はその喜びの記念日なのです。
 

  注;《開天節は、紀元後13世紀以降に記録された檀君神話に基づく、韓国の一種の「建国記念日」である。檀君が即位して檀君朝鮮を建国したことを記念し、天に感謝する日とされている》《光復節は、朝鮮の大日本帝国(日本)からの独立を祝う大韓民国の祝日》
 
 創造の時から存在していた安息日が、実際に道徳の法則である十戒の条文として人々に示されたのは、イスラエルの民がエジプトの奴隷生活から解放された後のシナイ山からです。それゆえ、安息日を含む十戒は、解放、すなわち救いの根拠でないことは間違いありません。救いの根拠は、“過ぎ越し祭の子羊”として象徴される、主イエス・キリストの犠牲、すなわち、十字架です(コリント人への第二の手紙5:7)。天の父も「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」(出エジプト記20:2)と前置きをされた後、安息日を含む十戒を守るように命じられました。安息日の場合はこの救いの事実が、さらに強調されました(申命記5:15)
 
  救いの結果としての安息日
 
 十戒や安息日は、旧約聖書においても、新約聖書においても、救いの条件としてではなく、救いの結果として提示されています。それは、十字架の恵みによって救われた人が、受けた救いを感謝し、神に栄光を帰する日なのです。

私たちは、日本に住んでいて、アメリカの憲法を遵守し独立記念日を徹底的に守ったからといって、アメリカの永住権を受けることができるわけではありません。しかしたとえ、アメリカ憲法を知らなかったとしても、アメリカ政府の好意で発給されたビザを根拠にして移民の資格が得られます。同じように、人は律法を守るから救われるのではなく、神様の好意によって救われるのです(エぺソ人への手紙2:8,9)。

しかし、ひとたび資格を得て移住したならば、アメリカの法を遵守しなければなりません。それは、移民の条件としてではなく、市民としての資格と特権を有効に活用し維持するためです。永住権や、市民権を取得していながら、故意に法を無視して罪を犯すなら、追放されるか、市民としての権利を法によって制限されます。

地上にあって、天国の市民としての生き方の特性と資格を語られた「山上の説教」の中で、イエス様は十戒の重要性とその意味を拡大しておられる事に注目するべきでしょう。(マタイによる福音書5:7~40、7:12~27)

 また、次のような質問が出るかもしれません。「では、過去において、誠実なキリスト者でありながら安息日を遵守しなかった人たちが大勢いたのですが、彼らが救われるのだとしたら、私たちも安息日を守らなくても救われるのではないでしょうか?」

この質問に答えるために、たとえば私たちは、旧約聖書の中で、信仰の父祖アブラハムを始め多くの人が一夫多妻の習慣に従っていたことなどに目をとめるべきです。彼らがそうしたのだから、今日のキリスト者も、同じように一夫多妻の制度を受け入れることは正しいことでしょうか。そうではありません。

イエス様は、当時、道徳的な標準が低下したために、離婚問題などにおいて人間的な判断が優先されている中で、その時代の人々の心のかたくなさと,心の暗やみを指摘した後、聖書の原則を示して、「初めからそうではなかった」(マタイによる福音書19:3~10)と断言なさいました。

 聖書は各時代の人々が生きた環境や受けた光、特権に対して、それぞれが責任をもって行動していくことを強調しています(マタイによる福音書11:20~24,25:24~28、;ヨハネによる福音書9:39~41;ローマ人への手紙2:12~23)。光を受けなかったことや、知らなかったことについて責任を問われることはありませんが、真理の光が示されたにもかかわらず、それを拒むことは重大な違反とみなされます。使徒パウロも「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにいる人でも、みな悔い改めなければならない」と語り、さらに、神様がこの世界を裁かれるのだから、神様に義とされるような歩みをするべきことを勧めます(使徒行伝17:30、31)

  裁きの基準である十戒
 
 以上のべたように、安息日を含んだ十戒を遵守することは、救いの根拠ではなく、ただ、恵みによって与えられた救いに対する、人間からの感謝の応答となります。つまり、十戒の役割は、罪人を義人に造りかえることではなく、十字架の恵みによって義とされた人を、罪から守り、清い生活を送らせるための標準なのです。

しかし聖書では、その信仰が真実のものであるかどうかを証明する実によって裁かれることも教えられています(マタイによる福音書7:16~21)。そこでは、実を結ぶことのない信仰は偽物であり、最後には神様から拒まれると言われています。この裁きの標準は自由の律法と呼ばれる十戒です(ヤコブの手紙2:8~13)。この律法に調和した品性の実を結ぶことが求められているのです。
 

 終末の時代において、義なる者として立ち続ける真のキリスト者の特性が「神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒」(ヨハネの黙示録14:12)と言われているのはそのためです。救いは信仰により受けるものですが、裁きは信仰の結果である行いや品性によって判断される事をわきまえなければなりません。(マタイによる福音書16:27;ヨハネの黙示録22:12)
 
 それゆえ、安息日をはじめとして、十戒を批評するなら、「自由の律法によってさばかれるべき者らしく語り、かつ行いなさい」(ヤコブの手紙2:12)とうの勧告をしっかり心にとめなければなりません。なぜなら「律法によって違反者として宣告」(ヤコブの手紙2:9)するという役割は、律法の中に今も変わらず存在しているでからです。「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」(ローマ人への手紙3:31)との事実を福音の構造から理解するべきです。

 

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