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6.クリスチャンが真理と原則に不平をいう理由

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人々が宗教に関して抱く不満のひとつは、宗教には余りにも制限が多く、わずらわしいと感じることです。そのため、厳格な規則や制約のない教会ほど、人はたくさん群がります。たとえば、酒を飲んでも、タバコを吸っても、何の制裁もない宗教ほど人気があります。天国には行きたい、でも信仰生活は気ままにしたいという態度が、キリスト教会の中にも忍び込んでいます。今は、クリスチャンであっても、個人の権利と自由を制限されたくないなどと、公然と語る人もいます。そして、≪ある罪を放棄しなさい≫、という聖書の要求を強調する教会や牧師は、人気がないのが現実です。

現代クリスチャンの多くは、仲間から“違っている”と思われることを恐れて、聖書が教える真理、原則や戒めなどについて、非常に批判的になる傾向を持っています。そのような人たちは、これまで教会が、余りにも律法主義的で、せせこましい考え方をしてきたから、社会的な地位のある人や、学識のある人たちが、なかなか教会になじめないのだという理論を展開します。

聖書の原則や標準について語る時、最も大事なことは、その原則と標準が、人によって作られたものか、神様によって造られたものなのかを、しっかり見る必要があることです。人間によって独断的に作り上げられた禁止事項なのか、天のお父様から、人間の幸福のために与えられた、愛の規制なのかを見分けなければなりません。永遠の命への道は、バラの花がまき散らされた、美しい舗装道路ではありません。聖書ではそれは、狭く険しい道であると説明されています。「命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(マタイ7:14)。
クリスチャンになるための、大切な原則は“自己否定”です。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(ルカ9:23)。クリスチャンになるためには、神様のみ言葉への完全な屈服が求められています。

『マタイによる福音書』にある、高価な真珠の例え話は、永遠の命という素晴らしい報いを得るためには、何ひとつ残さず、全部を投資する心を持たなければならない事を表しています。「また天国は、良い真珠を探している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。(マタイ13:45、46)。

そうすると、多くの人の口から、神様が定められた道はあまりにも狭く、あまりにも犠牲が大きいと不平が出てきます。しかしイエス様は、「あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切る者でなくては、わたしの弟子となることはできない」(ルカ14:33)と言われました。

同じくイエス様は、金持ちの青年役人へ、永遠のいのち得るためには、もうひとつの事をしなければならないと言われました。その時、この青年は、そのひとつの要求を拒んでしまいました。彼は、神様の言葉に従うことよりも、目に見える現実的な安定した生活を選んだのです。その結果彼は、永遠のいのちを失いました。同時に、青年だった彼は、紀元70年のエルサレム滅亡の時、彼の財産さえも灰になることを経験しなければならなかったことでしょう。

神様は、財産であれ何であれ、その人が持っていて益になるものまで捨てるようにとは言われません。いつでも、それを持ち続けていると、やがてその人を滅ぼしてしまう、偶像を捨てるように言われるのです。たとえ親子や夫婦の愛情であったとしても、神様への愛を減少させるような地上のつながりは、捨てるようにと言われるのです。イエス様は次のように語られました。

わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10:37)。

人間の愛情は大切なものですが、神様よりも相手を愛するようになると、時には、その人の言葉に従って、神様の言葉にそむき、イエス様の救いを手放してしまうことがあります。

 

新しく生まれていないクリスチャンは、神様の言葉をあるがままに受け入れたくないため、神さまに従わない、もっともらしい言い訳をする傾向を持っています。

 

私たちは、天の原則と御国の福音を提示する時には、天来の愛と知恵を持っていなければなりません。しかし、いくら愛と知恵を持ってみ言葉を伝えたとしても、聞く人が真理に対して心を開かず、愛を感じないならば、何の役にも立ちません。真理と言うのは自己否定を要求するので、肉の性質にとっては、あの富める青年のように、難しいと感じたり、また、決断することを先延ばしにするため、やがて、真理に対して、不平不満や疑いが出てきてしまうのです。

 

  愛すれば不平は消える

 

結婚は、お互いの間に、厳格なルールがたくさん含まれる関係です。結婚する人は、自分が以前好んでいた、多くのものを諦める決心をしなければなりません。夫になる人は、これ以上、他の女性たちとデートする自由を諦め、自分の残りの人生を、ただ一人の女性のために、自分を縛る約束をするのです。


花嫁も同じく、自分を夫に捧げて、以前と同じような男性との付き合いはしないという誓約をしなければなりません。そのように、結婚生活では、それまでの一人の生活と比べるなら、自由が相当に制限されるようになります。結婚の誓約は、多くの人の人生において、一番細くて制限の多い道を歩む決心をする事です。そこでもし、制限や規則が多ければ多いほど、人生は窮屈になって不幸になるのだとするなら、結婚こそ一番悲惨で不幸せであるはずです。けれども、事実はそうではありませんね!

結婚は、最も幸福な出来事です。なぜでしょうか?なぜ、結婚式場で、花嫁が花婿に自分の生涯を捧げますと、誓約をする時、あれほど輝き、幸せそうに見えるのでしょうか?なぜ花婿は、自分の残りの人生を、これから、とてもややこしい制限を受けことになる誓いを行いながら、あれほど幸せであるのでしょうか?この質問に対する答えは簡単です。彼らはお互いに愛し合っているからです。結婚による制約は、決して苦痛ではなく、むしろ彼らに満足を与える理由であって、相手を愛するゆえに、自分を制限することは喜びとなるのです。

結婚式を終えた直後に、不平を口にする花嫁の話を聞いたことがありますか?「ああ、私は、これ以上他の男性たちとデートすることが出来なくなった、これって不公平だわ。結婚のルールは、私に、夫にだけ忠誠を尽くせと強要している。結婚って制約がありすぎるわ」。このように不満をいう花嫁の声を、聞いたことがありましたか?

結婚に関しては、それを守るために法律や不文律が、非常に細かく、たくさんあります。ですから、それに違反した場合、時には裁判になったりすることがありますが、愛しあう新郎、新婦にとっては、それらの法律や約束事は、全然気にならず、不平を言うことはありません。

夫婦のどちらかが姦淫を行えば、(韓国では)法律によって当人は逮捕され刑務所に入る事になりますが、しかし、新郎新婦は、そのような法律があることを意識しません。ふたりは、お互いに愛し合っているのです。愛は、ふたりを縛るもろもろのルールや法律に対して不満を抱きません。むしろ、それらのルールが、彼らの結婚生活を保護する役割をしてくれるのです。彼らは、自分が法に違反して処罰を受ける事が嫌だからではなくて、愛する相手を喜ばせたいと願うゆえに、相手に対して忠実になるのです。

それに対して、この世で最も悲惨な男女は、結婚はしたけれども、相手を愛さなくなった人たちです。それこそ、文字通りこの世の地獄を経験することになります。彼らは自分に課されたルールや法律を重荷に感じ、いらつき文句を言います。

 

  真理に対する不平の本当の理由

 

それと同様に、この世で最も不幸なクリスチャンは、バプテスマを通してキリストと結ばれたにもかかわらず、キリストを真実に愛さないクリスチャンです。彼らは、自分たちに対して、聖書の戒めや規則を教える教会や説教者を、「律法主義者」と呼んで、ひどく非難します。しかしこの場合、問題は教会や説教者にあるのでしょうか?

問題の真の原因は、不平を持つその人が、イエス・キリストと個人的な愛の関係を持っていないことにあります。神様の言葉や預言をよく知っていたとして、イエス・キリストとの個人的な交わりを経験していないなら、聖書が語る真理の原則に対して、不満を持つようになるのです。
新しく生まれていないクリスチャンの心の中には、受け入れたくない教理があちらこちらに積まれています。受け入れなかったゆえに、ほこりをかぶった教理や戒めや信条が心の中にたまる時、魂は力を失い死んでいきます。 

まことの信仰は、イエス・キリストと個人的な愛の関係に入りますが、それは感情的なものではなく、聖書が語る真理と原則を、あるがままに受け入れ、喜んで従う所まで深く愛する関係に入ることです。

大部分のクリスチャンが持っている問題点は、信仰生活をする彼らの動機が、単純にご利益的な要求を満たすためであることです。彼らは、人生の不幸や苦しみに会いたくないために宗教を持ちます。地獄の火から逃れるために主の戒めに従おうとします。それゆえ、彼らはいつも苦痛に満ちた表情をしているのです。

ああ!クリスチャンの信仰が、どれほど歪曲されたのか!クリスチャンは、この世にあって最も幸福な民でなければなりません。主を信じると決心したものは、たった今、結婚式を終えて出発する、新郎新婦よりもっとさらに幸福な人になるべきです。

奥さんが、旦那さんの好む食べ物を作らないと離婚されると思い、毎日、旦那さんの好きな食べ物を必死で準備するようなら、その家庭は幸福になれるでしょうか?そのような緊張状態の結婚関係は、あっというまに壊れるに違いありません。

旦那さんを愛する奥さんは、彼を心から喜ばせたいと願うので、旦那さんの好きな食べ物を楽しく作るでしょう。同じように旦那さんは、奥さんの誕生日が近づくと、何をほしがっているのか注意深く耳を澄ますでしょう。奥さんは旦那さんに、自分が何がほしいのか分からせるために、出勤する旦那さんの足を止めて、繰り返し言うことはないでしょう。旦那さんは愛する奥さんの誕生日を、ちゃんと覚えていて、喜んでプレゼントを準備します。

これと同じように、生まれ変わったクリスチャンは、主を喜ばせる方法を探し求めて、日々、聖書を探求するようになります。彼は、自分が最高に愛するお方を、どうすれば喜ばせることが出来るかを知るために、絶えず預言と教訓を探求するでしょう。

英語訳のある聖書には、このような表現があります。「何が最も主を喜ばせることかを発見するため、いつでも非常に努力しなさい」(エペソ人への手紙5:10)。クリスチャンのための、どれほどすばらしいスローガンでしょう!この標語こそ、主を真実に愛する人たちの、最高の望みではないでしょうか!

キリストが十戒の中で、最初の4つの戒めを次のようなみ言葉で要約されたのは、当然なことでした。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』これがいちばん大切な、第一のいましめである」。(マタイ22:37、38)


聖書が教える規則や厳しさに対して、不平を言う本当の理由は、彼らが神様を愛するのではなく、自分の救いのためだけに信仰生活を送っているせいです。そのような信仰では、救われないことはもちろん、生涯においても、幸せに暮らすことは出来ません。そのようなクリスチャンたちは、自分が守れそうな、いくつかの規則を守ろうと努力することが信仰であるかのように錯覚しています。しかし、神様に対する心からの愛がないまま続ける努力と戦いを、信仰であるかのように思っている人は、とても深刻な誤りを犯しているのです。キリスト教のすべての原動力は、愛から始まることを忘れてはいけません。それゆえに、使徒ヨハネは次のようなみ言葉を残しました。「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない」(Ⅰヨハネ5:3)。

 

  せよ!とするな!の信仰

 

男の子を育てているお母さんは、たいてい逞しくなります。ある、3人の男の子を育てている母親でしたが、その人は、息子たちが常にきれいで、清潔な恰好をすることにとてもこだわりをもっていました。ところが、たいていの少年たちと同じように、その3人の息子たちも、顔を洗い、髪をとき、靴をきちんと手入れすることを面倒がりました。毎朝、学校に行くたびに、母親は身なりをきちんとするように、ガミガミ言い続け、自分の思う通りに従わせようとしたのです。

ところで、ある朝、思春期を迎えた長男が、まったく申し分のない格好で学校へ出かけようとしているのを見ました。母親はびっくりしました。びっくりしたのと嬉しいのとで、彼女はどうしてこんなことが起きたのか、息子をよく観察しました。なぞはすぐ解けました。学校に新しく転校してきた女子学生がいて、その女子学生が原因で、長男の態度がすっかり変わったのでした。
クリスチャンの生涯とは、“せよ”と“するな”で成り立っているものではありません。もちろん、キリストとの霊的な結び付きにおいても、実際の結婚と同じように、色々な規則や制約があることは違いありません。しかし、そうした制約は、神様を心から愛するがゆえに、喜んで行うことです。しかも、愛する人のために働き、仕え、犠牲を払うことは、その人自身に、深い幸福と満足感をもたらします。

ところが、この世の中で最も幸せであるべきクリスチャン生活を、重荷のように感じ、苦役にさいなまれているかのように思っている人が少なくありません。

神様のみ言葉のために、したいことができず、見たいものが見られず、食べたいものが食べられないと、不平不満を持っている人が何と多いことでしょう。彼らは、自分たちはあまりにも多くのものを“放棄”するように強要させられていると不平をもらします。真理に対して、感謝と喜びを味わうことができない、このような偽クリスチャンが多いために、信仰とは、窮屈な堅苦しいものだという印象を、周囲の人に与えてしまっています。

キリストに従う人々は、神様に従うことを、重荷とは決して感じないでしょう。天のお父様は、聖書に書き記された真理に、最後までついていく人々を探しておられます。天のお父様は、あなたがたが、無知であったり、自分勝手なラバのようなクリスチャン生活を送ることを願っておられません。

わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。あなたはさとりのない馬のようであってはならない。また騾馬(ラバ)のようであってはならない。彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、あなたに従わないであろう(詩篇32:8、9)。

クリスチャンの信仰は、「くつわとたづな」などで引っ張られるようなものではありません。イエス・キリストの恵みと愛が、ありがたくて感謝で、どうすれば主を喜ばせることができるか、という一つの目標をもって聖書を探求していくのです。そうやって聖書を学べば学ぶほど、光が増していき、さらに深い真理へと進み行くようになります。キリストに対する愛と感謝の精神が魂を覆っているので、キリストが教えて下さる真理と原則が、くびきに思われるはずはありません。自由な喜びに満ちた服従こそが、狭い道を進む聖徒たちのまことの経験なのです。

 

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