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9.水の上を歩く信仰 ②

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1)ペテロの失敗から学ぶ

あなたは水の上を歩けますか?もちろん、あなたは歩けません。なぜならあなたは、自分で、水の上を歩けるはずがないと考えているからです。あなたが、水の上は歩けないと信じるその信仰によって、水の上は歩けないようにされています。あなたは、イエス様があなたに、水の上を歩く力と信仰を下さることが、おできにならないと思っています。

夜明けのガリラヤ湖に注目してみましょう。ぼんやりとうす暗い光の中、水の上を歩いて近づいてくる一人の人がいます。船の上には、幽霊だと思って震え恐れている十二名の男たちがいました。その時、波を切り裂くように、力強い声が聞こえてきました。「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない!」(マタイ14:27)。イエス様であることがわかったペテロは、活気を取り戻して、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」(同14:28)と叫びました。イエス様は、「おいでなさい!」と言われました。ペテロは船から降り、イエス様を見つめて、水の上を恐る恐る歩き出しました。しかし次の瞬間、ペテロは、イエス様から目を離して、泡立つ波を見ました。彼は、「お前、何を考えているんだ!お前がどうやって、水の上を歩けるんだ!」と思ったのでしょうか?瞬間的に疑いが彼を飲み込み、彼は沈んでしまいました。今までどんな人も、水の上を歩いた経験はなかったのです!

これはペテロに起きた事件です。しかし、もしペテロが、勇気を持って、波の上に彼の足を踏み入れていなかったならば、私たちは、彼の失敗を通して、信仰に関する目覚ましい教訓を学ぶことはできなかったことでしょう。なぜなら、信仰というのは、いつも、水の上を歩くようなものだからです。

 

2)慣らされた偽りの信仰

サーカス団の像は、幼い時から、鎖でつないでおくと言います。小さい時から、片方の足を鎖で縛られ、自由を奪われて育った像は、大きくなっても、片方の足を、杭に細い鎖で縛っておくだけで、どこにも行かず、その場所につながれているそうです。像は自分を拘束する、杭や鎖など簡単に引きちぎって逃げる力を十分に持っていても、自分にはそんな事は決してできないと、幼い時から飼い慣らされてしまっているので、そのようになるのです。鎖や杭を自力で抜き、逃げ出せるのに、そういうことを試してみる事さえしないのだそうです。そうすると、像は鎖や杭によって抑えられているのではなく、自分の信心によって抑えられているということになります。
多くのクリスチャンも、弱い鎖と杭が像の自由を奪ったように、彼らの信仰生活において、罪から逃れることができない、罪に勝利することができないと思い込んで、罪から離れることができないでいます。次に紹介するある人の経験は、まさに、自由を奪われた像の姿を連想させるに十分でしょう。

「私は二十歳になる少し前にバプテスを受けました。当時、私はとても熱心で、100%本物のクリスチャンになりたいと望んでいました。私はダニエル書や黙示録を研究し、聖書の預言が、イエス様の信仰とどのようにつながるのかとか、真実のクリスチャン生活を送るためにはどうすればよいかなどを、研究しました。私の名前は教会員名簿に記録されましたが、その頃、自我と罪に対する戦いが始まっていました。サタンと、その強力な同盟者である罪と自我は、本物のクリスチャンになることを夢見る、私の決心をたやすく崩しました。

その結果、幻滅と失望が次々と私を襲いました。私は、続けて教会にとどまっていましたが、失望と挫折の曲線は大きく上下に動きました。時にはひどく、時には弱く・・・。それでも私は、相変わらず、真実で本物のクリスチャンになりたい、という望みは持ち続けていました。その後私は、神学校で学ぶようになり、後に牧師になりました。

聖書を研究すれば、私はあらゆる罪を征服できる可能性があることを、信じることができました。しかし、誘惑に対する慢性的な敗北感による苦痛と、回りの人から教えられた、罪、即ち利己心、ねたみ、忍耐心のなさなどは、イエス様がこの地上へ来られる時までなくならず、一生続くものであるという教えは、罪に勝てない私自身を合理化させ、納得させるのに十分なものとなりました。

私は、心の中ではキリストを信頼し、最善を尽くして罪と戦うことを決心していましたが、実際面では、罪に勝利できることは、全然期待出来ませんでした。このようにして鎖が作り上げられ、杭は地面に差し込まれ始めました。私は罪に勝つことができるという聖書箇所を読んでいましたが、その言葉は、むしろ私を混乱させ、結局、その言葉が教えていることは、違う意味なのだと思い込んでしまいました。私は、勝利の可能性が理解できていませんでした。聖書の真理は、自由を約束していましたが、イエス・キリストを信じる信仰でさえ、罪に勝利させる力はない、と思う私の信条に基づいて、私は鎖につながり、徹底的に飼いならされました」。

 

3)知識に先立つ信仰

「再びペテロの場面に基づいて、考えてみましょう。私は水の上を歩けませんでしたが、それは、水の上は歩けないと断定していたためでした。聖書の言葉を通して、私も歩けるとの十分な証拠を見たとしても、私はそれを信じることが出来ませんでした。私はその約束を、自分の失敗の体験から、受け入れ難かったのでした。過去における、私の敗北の連続を通して、私は聖書の約束よりも、私自身の経験と信条を、なお信頼していました。

その後私は、多くの研究や、葛藤を経て、真理は、ほんとうに私を自由にし、私がイエス・キリストを信じる信仰によって、肉と悪魔と罪に勝利し、聖書の命令は、すべてが可能になる約束であることを、少しずつ体験させられていきました」。

私たちは、信仰が体験に先立つという事実に注目しなければなりません。もしペテロが、イエス様の命じられたことを行わず、信仰を活用していなかったならば、彼は水の上を渡るという体験を持つことはできなかったことでしょう。しかし彼は、信仰を実行に移すことによって体験を得ることができました。人間の心は、しばしば、これと反対の道を求めます。私たちはよく、「先に証拠を見せてください!それなら私は信じます」と言います。ところが、神様は、「信じなさい、そうすれば、わたしはあなたに証拠を与える」と語られるのです。このような、人間と神様とのやり取りは、聖書を通して繰り返されてきました。

聖書によれば、ある時、ふたりの盲人が、イエス様に叫びながらついてきたことがありました。「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」(マタイ9:27)。イエス様は、彼らに癒しを与える前に、彼らから信仰の確信を引き出されました。

「『わたしにそれができると信じるか』と言われた。彼らは言った、『主よ、信じます』。そこで、イエスは、彼らの目にさわって言われた、『あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように』(マタイ9:29)。こうして、彼らの信仰が彼らを救ったのでした。

またある時、悪霊につかれた少年の父親が、イエス様の所に行って、「できますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」(マルコ9:22)と言いました。彼は話の中で、疑いを表しました。イエス様は彼の信仰が不足していることを指摘して、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」(マルコ9:23)と言われました。その時この父親は、自分が不信仰であれば、息子の病気を治すことができなくなることを悟り、熱烈な思いで、「信じます。不信仰なわたしを、お助け下さい」と、イエス様に叫びました。もしこの場面で、不信仰が表されていたならば、イエス様は、ご自分の力をお示しにならなかったことでしょう。「信じる者には、どんな事でもできる」。このように言われるイエス様に、あなたは何と返事をされますか?

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