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5.聖所に見る救いの計画

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  聖所が与えられた理由とその重要性

聖書通読をしたいと思って読み始めた人の多くが、創世記はよく読みますが、出エジプト記の後半からレビ記になると、難しさや退屈さを感じ、このあたりは、おおまかに読むか、ざっと飛ばしてしまう傾向があります。

その理由としては、出エジプト記の後半からレビ記の全体は、現代人にはなじみのない、聖所の器物や各種の祭式についての説明が、次から次へと出てくることにあると思われます。 ところで、聖書には、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらうる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」(Ⅱテモテ3:16、17)と言われています。すべての聖書のみ言葉は、神様の霊感によって書かれたもので、み言葉の一つひとつが私たちを教育し、完全にするために書かれているのです。

それでは、聖書の最初の部分である出エジプト記とレビ記で、詳しく反復されながら説明されている聖所についての記録について、私たちはこれを、難しいからとか、旧約時代のことで過ぎたものだから、などと考えて、放っておいてよいのでしょうか。そうすることはできないはずです。しかも実は、聖所制度には、私たちが考えている以上の、驚くべき救いの摂理があるのです。聖所制度は、神様が人類をお救いになる過程が、細密に描かれている青写真と言えるものなのです。

実は、聖所制度の始まりは、創世記に記されています。アダムとエバが罪を犯した後、神様が備えて下さった皮の衣を通して、身代わりの死と、裸の恥を被う義の衣の必要性について、犠牲が伴ういけにえ制度の原型を見せてくださいました。それゆえ聖所制度は、神様が罪の問題をどのように解決なさるのか、どのようにして人が再び罪の問題から回復されて、神様のみ前に立つことができるかを示しているのです。

アダムとエバが犯した罪のゆえに、犠牲となった動物はイエス様を象徴しています。そして、モーセの時代に、人の罪に対して犠牲として捧げられた動物たちも、同じくイエス様を象徴しています。聖所で行われる儀式の一つひとつは、イエス様の奉仕の生涯と務めを表すと同時に、神様を信じる人々の、救いの経験がどのような段階をたどるものなのかを説明しているのです。

今回の研究では、聖所制度が始まった理由、聖所の重要性、救いのひな型としての聖所の意味、聖所の器具が持つ意味、聖所で行われた祭式の制度などが私たちへ与える意味、そして聖所を通して知るイエス様の過去、現在、未来の務め、さらに、私たちが現在立っている所と立つべき所などを、詳しくて見てみたいと思います。

これをお読みになる皆様が、神様が示して下さった、驚くべき救いの道を発見され、さらに深く神様の愛のご計画を理解され、心に真の平安を見いだされることを願います。

 

 1、聖所制度が与えられた理由


①人類の堕落
  救いの計画の型である聖所制度の起源は、人類の堕落に由来しています。人が罪を犯さなかったならば、永遠にエデンの園で神様と共に生きることができました。死、病、悲しみ、苦痛、老いのような、罪の結果は、もちろんこの地球上に全然なかったのです。そこには、愛と平和が満ち、幸福で永遠に成長、発展する喜びだけが存在したはずでした。しかし、人類の始祖であるアダムとエバが罪を犯して、そのすべての調和は壊れてしまい、恐れや不安、災難の影がこの世へ垂れこめてきたのです。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)。

  ところで、聖書は人類の始祖アダムたちだけではなく、すべての人間が罪を犯したと教えています。「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」(ローマ3;23)。アダムとエバの罪の結果、すべての人は、罪に対して弱くなった本姓を、遺伝として受け継ぐようになり、そのために、その子孫たちも自分の選択のゆえに罪を犯すようになり、罪の結果としての死が罪人全員に臨むようになりました。

  ところで、罪とはどのようにして成立するものでしょうか?聖書では、罪に対して次のような定義を与えています。「すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である」(Ⅰヨハネ3:4)。言い換えるなら、罪とは神様の律法である戒めを犯すことです。この宇宙には法則があります。星が規則正しく運行し、回転する周期があり、動物たちが呼吸し運動する生理法則があります。自然界では、この法則が壊れると秩序と安定が失われますが、人間の世界でも、神様の法則が壊されると、平和と幸福が、ひいては、その生命の存在自体が破壊されてしまうのです。

  自然界と同じように、人間界でも、そして霊的な世界でも、法則、道徳的法則が存在しています。その法則は、ある面では自然界の法則よりも、もっと重要なものです。道徳的で霊的な法則が、自然界を支配するためです。たとえば、人間が間違った道徳的法則によって、原子爆弾を作れば、自然界にはとてつもない破滅がもたらされることになります。また、その道徳的な法則に逆らって戦争などが起これば、全世界の人たちに、さらに全宇宙へ大きな悲しみと苦しみを招くことになります。私たちは現在の世界で、神様の戒めにそむくことである、詐欺、窃盗、強姦、殺人、親不孝、偽証などの、恐ろしい結果を目の当たりにしています。人間は、神様の政府の律法、すなわち、宇宙の憲法である戒めを無視する罪を犯したゆえに、堕落してしまい、その結果として、恐ろしい死が入り込んできたのです。

 

  神様の選択とご計画

天のお父様が、善悪を知る木の実だけは食べてはいけないと言われたのは、エデンの園におけるただ一つの戒めでした。それは、創造主であられる天の父を、全的に信頼し、その支配のもとに、ほんとうの平和と幸福があることの象徴でした。しかし、人類の始祖は、その戒めを破り、サタンのそそのかしの方に信頼を置きました。悪魔は、神様を利己的な不公平な方だとほのめかしました。この実を食べないようにと言われたのは、神様のように目が開かれて賢くなるからなのだと思わせました。そして、天のお父様の戒めは、破っても、神様が言われたようにはならず、決して死にはしないから心配は無用だと欺きました。こうして、人類の始祖は、天の父なる神様のみ言葉より、悪魔の言葉を信じて、神様の政府の基礎である戒めを破り、反逆の方を選びました。

人間の堕落は、神様のお心に、非常に大きな悲しみと苦しみを与えました。愛の神様は、今、選択をされなければならなくなりました。罪を犯した人間を、無条件に赦してしまえば、全宇宙に存在する被造物たちが、神様の律法をなおざりにし、その結果として甚だしい反逆と破壊が宇宙を襲うことになるため、そのようになさることはできませんでした。だからと言って、人類をそのまま望みなく、永遠に死んでいくままにしておくことも、おできになりませんでした。このような難しい選択の中、愛の神様は、人類の罪の代価を、ご自分の御子の死によって支払われました。こうして、違反者は死ななければならないという律法の要求は満たされ、なおかつ、人類に赦しを与えることが可能になるという、新しい道を開かれたのです。それによって人間は、もう一度生きることが赦され、さらに、キリストを信じる信仰によって、新しい心を受け、罪に勝利する人生を送り、神様の律法が正しいことを、全宇宙に対して証明する役割をお与えになったのです。

神様が人間を創造された時、自由意志を授けられました。自由に選択できなければ、それはロボットであって、人間だとは言えません。また、自由意思による選択がなければ、品性の向上はありえません。しかし、人間がこの自由意志を持つということは、反逆や不従順の危険も伴うものでした。それゆえ、神様の創造のみ業の中には、人類の堕落の可能性や、その時の対処法もすでに設けられていました。それが、神のみ子イエス・キリストが、罪を犯した人間のために来られ、彼らの罪の身代わりとして死なれ、義なる生涯の模範となって下さるということでした。キリストのその務めは、人類のすべての罪の結果を身に負い、永遠の刑罰を受けるという、途方もない苦痛を伴うものであり、ただ一度であっても罪を犯すことができないという、非常な緊張の伴うものでした。

天の神様は、愛するみ子を遣わすことによって、実に、ご自分の命を与える選択をされたのでした。創造者であられる神様が、反逆した被造物のために、ご自身を捧げられるという、途方もない愛が、ここに示されたのです。そして、人類を救い、創造当時の清い姿へと回復する道筋が、聖所の制度によって、明白に教えられました。

神様のみ子イエス・キリストの犠牲を通して、人類は再び回復する希望を持つことができるようになりました。神様は、アダムの子孫としてこれから生まれて来る、数えきれないほど多くの人々をご覧になり、人類を滅びるままにしておかれませんでした。まさに今、この文書を読んでおられるあなたを、神様は前もってご存じでした。そして、あなたが、救いを受けて永遠に生きる事ができるように、神様はご自分を犠牲にされたのです。神様が、ご自分をあなたのために捧げられるほど、あなたの持っている命は、尊いものなのです。

清い神様の目から見たら、ハエや蚊にも劣るような、私たちの罪ある命なのですが、その私たちを、美しく造り替えるために、神様は、ご自身の全存在をかけて下さいました。神様がご覧になる私たちの価値とは、どれほど大きいものなのでしょう。イエス様の十字架を通して初めて、私たちは、自分たちの本当の価値を知ることができるようになるのです。

そして神様は、人間の回復のために必要な、あらゆる準備をされたあと、将来生まれてくるアダムの子孫たちの中で、救いを選ぶ人々の数が満ちるまで、この罪の世界が続くことをお許しになりました。それは、神様が愛であることと、律法の正しさが、全宇宙に対して証明されなければならなかったからでした。サタンが天で反逆したのは、神様の愛と正義に対する疑いからでした。神様は愛の方ではなく、その律法は専制的で公平に欠けている、とサタンは主張しました。「誰も神様の律法に従うことはできず、その証拠に、アダムとエバは堕落したのだ」、と言いました。

そこで神様は、神のみ子キリストを人間の世界に遣わし、罪によって弱くなった人間の性質のまま、信仰と祈りによって、律法に従うことが出来ることを証明されたのです。キリストは、罪と反逆、病気と弱さ、肉の性質のあらゆる誘惑の押し寄せる中で、「激しい叫びと涙」(ヘブル5:7)をもって神様に祈られ、すべての罪に勝利されたのでした。

そしてキリストは、キリストが持っておられたような信仰を働かせるなら、どんな人も、律法に喜んで従うことができることを教えられました。人は聖霊によって新しく生まれ、心の動機と生きる目標が新しくされ、キリストの品性を反映しながら、神様の愛と正義の証人として歩むことができるのです。このようにキリストの心を持って生きる人を、神様は喜んで、天の御国で、永遠に共に住むことができる者として受け入れてくださるのです。

人間がこの世に生まれる唯一の目的は、生きている間に、熱心に探し求めて、神様を見い出し、永遠の命を受けることです(使徒行伝17:25~28参照)。私たちが受けている現在の命が、どれほど尊いものであるか計り知れません。私たちが神様を見い出し、救いの賜物を受け取るなら、私たちは永久に生きる命を得ることができます。ですから私たちは、今の私たちの生きる環境がどうであれ、どんなに困難な状況や試練の中にあっても、神様から頂いたこの驚くべき命というチャンスに対して、感謝と賛美を捧げなければなりません。私たちが今持っているこの恵みの機会は、驚くほどすばらしいものだからです。

 

2.アダムとエバから始まった聖所制度

罪を犯した人間に対して、神様が一番先にアダムとエバに与えられたのは、まさしく聖所についての啓示でした。それは創世記3章の記事の中に見ることができます。エデンの園から追い出されるアダムとエバに、神様は皮の衣を着せたと記録されています。皮の衣を着せるためには動物を殺さなければなりませんでした。そのように、聖所の儀式には、必ず雄牛や羊、山羊など、いけにえとして捧げられる動物の犠牲が伴うのでした。その動物の死は、まさに、将来人類の罪のために十字架で死なれる小羊、イエス・キリストを象徴していました。聖所制度こそ、神様が人類をどのように救い出されるかについて、細かく説明してくださった、救いの計画書でした。ですから、死と滅びの宣告の中にいたアダムが、このような聖所制度の中に表された神様の救いの計画の説明を聞いて、それを理解した時、感激のあまり自分の妻の名前を“エバ”と名付けたのです。それは“すべて生きた者の母”という意味でした。聖所制度を通して、人は、死ぬべきものから、生きる者へと変えられる道が示されたのです。詩篇77章13節では次のように宣布しています。「神よ、あなたの道は聖所にあります。われらの神のように偉大な神はだれでしょう」(欽定訳による)。

アダムとエバが罪を犯した直後の、エデンの園に戻って見ましょう。そこでは、人類の始祖と神様の間に、次のような会話があったのではないでしょうか?この話は筆者が想像したものですが、明らかに、このような会話が交わされたのではないかと思われます。

犯した罪のために震えていたアダムとエバに、神様は言われます。「アダム!あなたの後ろにいる動物が見えるか?」「はい、神様!二匹の小羊たちが遊び回っています!私たちが可愛がっている動物たちです」「その小羊を呼びなさい!」。アダムとエバが合図を送ると、その二匹の小羊たちは、飛び跳ねながらやってきて、一匹はアダムのふところに、もう一匹はエバの胸に抱かれました。その時、神のみ子は言われました。「アダム!あちらの石を取ってきて、その石で子羊の頭を強く打ちなさい!」「神様!この小羊を殺せとおっしゃるのですか?」。うろたえるアダムに、神様はもう一度言われます。「その通りだ!」と。神様の命令に逆らうことのできないアダムは、石を取って小羊を打ちます。石で強く打たれた罪のない小羊は、「どうして私はこのような目にあわなければならないのでしょうか」と言うように、目を見開いたまま、死んでいきます。

死の光景を初めて目にしたアダムは、恐れわなないて、羊の死骸を地に落としながら、もう一度問います。「神様!私たちが犯した罪によって、小羊がこのように死ななければならなくなったのですか?」。その時神様は、アダムに向かってこのように言われました。「いいえ、アダム!あなたたちが犯した罪のゆえに、私がこのように死ぬことになるのです!」。その時、神様の救いの計画を悟ったアダムとエバは、神様のみ前にひざまずいて、このように叫びます。「おお神様!そのようなことはなさらないで下さい。私たちは、そのような神様の愛にはふさわしくない者です。おお主よ、私たちが犯した罪のゆえに、神様がこれほどむごたらしく殺されなければ、救いが与えられないとすれば、私たちは、罪を憎みます。どうしてこれ以上、主を苦しめることができるでしょうか!おお神様!私たちは罪を心から憎みます!二度とこの罪を繰り返しません!」。

聖所の儀式には、神様がどのように人間の罪の問題を解決されるかについて、詳しい説明がなされています。聖所制度は、人間が直接その儀式に参加して、神様が人類を救われる方法を、生々しく実体験できるように計画されています。それゆえ、聖所についての研究は、私たちの救いを左右するほどの、重要なテーマであると言えます。

 

3.モーセが設営した地上の聖所は天の聖所のひな型

神様は、モーセに聖所を造るよう命じられた時、次のように言われました。「また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。すべてあなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない」(出エジプト25:8、9)。この聖所は、聖なる神様が、罪人である人類と共に、再び住むことができるようになるための計画です。聖所制度の全体は、イエス・キリストの受肉と、地上生涯と十字架、そして、昇天されて、今も天の聖所で続けられている奉仕の務めを象徴する、器具や礼式などであふれています。聖所の器具一つひとつ、儀式に用いる物品の色などに至るまで、それぞれが、人間の救いのために果たす役割を象徴していました。さらに、イエス・キリストに従うクリスチャンが経験するべき、救いの段階が、実例を通して教えられたのでした。

使徒パウロは、神様がモーセに、天にある聖所の形を啓示の中で見せて、その形通りに造るように指示されたという説明を付け加えています。「彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、『山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい』と言われたのである」(へブル8:5)。そこで私たちは、天には、モーセが造った聖所の本体、すなわち、真の聖所があることを知らなければなりません。聖所は神様の住まれるところであり、その聖所におられる神様に、罪人がどのように近づいていくのか、この聖所制度を通して示されたのでした。神様は、救いの計画を、聖所を通して人間が目で確認でき、手で触れることができるように、より正確に理解させようとされたのでした。

 

4、聖所の三つの部分と救いの三段階

聖所は三つの部分に分かれていました。それは、イエス・キリストが、人類の救いを三つの務めを通して成し遂げられることを意味します。パウロは、イエス様が私たちの大祭司である事実を次のように説明しました。

この望みは、わたしたちにとって、いわば、たましいを安全にし不動にする錨であり、かつ『幕の内』にはいり行かせるものである。その幕の内に、イエスは、永遠にメルキゼデクに等しい大祭司として、わたしたちのためにさきがけとなって、はいられたのである。・・・しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務めを持ちつづけておられるのである。そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。・・・このような大祭司がわたしたちのためにおられ、天にあって大能者の御座の右に座し、人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる、ということである」(へブル6:19、20;7:24、25;8:1,2)。

イエス様は私たちの大祭司として、聖所の外庭における務め、幕屋の前方にある聖所、そして、幕屋の第二の部屋である至聖所で、罪人のための救いの働きを行われるのです。

 

  聖所の外庭

聖所の外庭において、罪人が連れてきた犠牲のいけにえを殺し、燔祭の壇で焼き尽くすことは、イエス様がこの地へ下り、世の罪を取り除く神の小羊となられ、贖いのいけにえとなって死なれることを象徴したものでした。「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ」(Ⅰコリント5:7)。「しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた」(へブル10:10)。

 

  聖所の第1の部屋(聖所)

聖所の前方にある部屋は、キリストが復活後昇天され、天の聖所に入り、ご自身の流された血潮を信じて、悔い改めて進み出てくる者たちのためにとりなしの祈りをされ、罪を赦し、聖霊の恵みと力を分け与えられることを象徴しています。その働きは、実際には、イエス様が天に昇られた時から始められたものでした。

使徒パウロはその事件を次のように説明しました。「しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」(へブル9:11、12)。

 

  聖所の第二の部屋(至聖所)

聖所の第二の部屋は、至聖所と呼ばれ、そこは、イエス様が、天のお父様の御座の前で人間を裁かれる最後の場面を象徴していました。それゆえ、聖所の三つの場所は、イエス・キリストを信じる者たちが、天のさばきの座の前に出るための、各段階を表しています。

至聖所の中には、律法と贖い〔恵み〕の座、そして神のシカイナの栄光がありました。神様はここで、罪人と会われるのです。

ケルビムは翼を高く伸べ、その翼をもって贖罪所〔恵みの座〕をおおい、顔は互いに向かい合い、ケルビムの顔は贖罪所に向かわなければならない。あなたは贖罪所を箱の上に置き、箱の中にはわたしが授けるあかしの板を納めなければならない。その箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために、わたしが命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう」(出エジプト25:20~22)。

聖所の儀式の本来の目的は、罪人の最終目的地である至聖所に入ることでした。罪人は、至聖所における経験に備えるために、順を追って聖所の経験を積んでいくのです。外庭における回心の経験と、聖所〔第一の部屋〕における義認と聖化の経験は、光り輝くシカイナの栄光の前での、栄化の経験に罪人を備えさせるものです。罪人が神様のみ前で立ち得るようになるとき、贖いの計画は成し遂げられるのです。

至聖所は、裁きを表しています。天のエデンに復帰させられる前に、人類は審査されなければなりません。天の住民は、罪と反逆にうんざりしています。罪のために、全天使の三分の一が失われ、以来、六千年ものつらい闘いが続いたのです。天の、これらの純潔な住民たちが、裁きの座についています。私たちは、天の法廷の厳粛で綿密な調査を免れて、天国に行くことができるでしょうか。絶対にできないことです。それは決して許されません。私たちの生涯の記録が、詳細にわたって検討されるでしょう。そして私たちは、罪のない環境に生きるにふさわしい者か、救っても安全かどうかを調べられるのです。

もしそうでなければ、イエス様はなぜ、再臨を遅らせておられるのでしょうか?もしも、十字架による罪の赦しだけで救いが得られるとしたら、神様はなぜ、罪の存続を許しておられるのでしょう?罪人が、罪の生活から離れるほどに悔い改めているかどうかを、神様は調査されなければなりません。決心するだけでは不十分なのです。信仰によって、罪人は罪への勝利を経験しなければなりません。なぜなら、与えられたすべての光に全く服従することによって、信仰は立証されるからです。

また、この至聖所での儀式は、ユダヤの7月10日、1年に1度だけ行われる「贖いの日(贖罪日)」と呼ばれるものでした。『レビ記』16章には、その日に行われることが、次のように記されています。

これはあなたがたが永久に守るべき定めである。すなわち、七月になって、その月の十日に、あなたがたは魂を悩まし、何の仕事もしてはならない。この国に生まれた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者も、そうしなければならない。この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められるからである。これはあなたがたの全き休みの安息日であって、あなたがたは魂を悩まさなければならない。これは永久に守るべき定めである。油を注がれ、父に代わって祭司の職に任じられる祭司は、亜麻布の衣服、すなわち、聖なる衣服を着て、あがないをしなければならない。彼は至聖所のために、あがないをなし、また会見の幕屋のためと、祭壇のために、あがないをなし、また祭司たちのためと、民の全会衆のために、あがないをしなければならない。これはあなたがたの永久に守るべき定めであって、イスラエルの人々のもろもろの罪のために、年に一度贖いをするものである。彼は主がモーセに命じられたとおりにおこなった」(レビ16:29~34)。

 主はイスラエルに、贖罪の日には魂〔口語訳では「身」〕を悩まし、何の仕事もしないようにと命じられました。魂を悩ますとは、徹底的な悔い改めを意味しました。彼らは、告白していない罪、または秘めている罪がないか、深く心を探ることになっていました。エレン・ホワイトは、実体としての贖罪の日に生存している私たちのために、次のような適用をしています。

「われわれは、今、大いなる贖罪の日に生存している。型としての儀式においては、大祭司がイスラエルのために贖罪をなしている間、すべての者は、主の前に罪を悔い改め、心を低くすることによって、身〔原文では「魂」〕を悩まさなければならなかった。もしそうしなければ、彼らは、民の中から絶たれるのであった。それと同様に、自分たちの名がいのちの書にとどめられることを願うものはみな、今、残り少ない恩恵期間のうちに、罪を悲しみ、真に悔い改めて、神の前に身〔魂〕を悩まさなければならない。われわれは、心を深く忠実に探らなければならない。多くの自称キリスト者がいだいている軽薄な精神は、捨て去らねばならない。われわれを打ち負かそうとする悪癖に勝利しようとする者は、みな、はげしく戦わなければならない。準備は、一人一人がしなければならない。われわれは、団体として救われるのではない。一人の者の純潔と献身は、これらの資格を欠く他の人の埋め合わせにはならない。すべての国民が神の前で審判を受けるのであるが、しかし神は、あたかもこの地上にその人一人しかいないかのように、厳密に一人一人を審査されるのである。すべての者が調べられねばならない。そして、しみもしわもそのたぐいのものがいっさいあってはならないのである」(各時代の大争闘下224ページ)。

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